カラン、コロン。
下駄の音を響かせながら、酷く眠そうな顔を引っ下げて少年は歩いていた。
時はまだ早朝。辺りには朝靄が漂い、何処となく荘厳な雰囲気を醸し出している。
イノリは頭の後ろで組んでいた腕を解いてぐるぐると回した。続いて大きく伸びをする。
息をつくと白くなり、またすぐに散った。
アクラムとの戦いが終わってからもあかねは京に留まることを選んだ。
未だに自身に残る神気に穢れを祓う力があると知るや否や、何処までもお人好しな少女は躊躇いもなく決断を下したのだ。
そんな訳で龍神の神子は相変らず藤姫の館に身を寄せている。
結果的に、神子を巡る八葉達の冷戦も長期戦となっているのだった。
イノリは今から目にするであろう大人達の醜い争いを思ってがっくりと肩を落とした。
自分があかねに興味が無い、という訳では断じてない。
むしろ、抱えている想いは他の八葉達にも決して引けを取らないだろう。
けれどいまひとつ積極的に押していけないのは。
やはり、怖いのだろう。この慣れない恋心の存在が。
彼は生い立ちのせいだろうか、どうしても恋愛方面には臆病になってしまう。
しかし、今日こそは。
重い瞼を擦って、ぐっと気合いを入れ直す。
向かうは郊外の少し寂れた田園だ。ここには主の居ない館がひっそりと立ち並んでいる。
今日こそは一歩抜きん出てやる。
辺りに人の姿は無い。元より通る数が少ないというのもあるし、加えてこの時刻だ。
だから少年はゆっくりと一軒一軒を覗いて回ることができる。
蔦の絡みついた門を入り、時には崩れかけの塀を飛び越えて。
かつての栄華を極めたであろう邸宅。
今では目も当てられないほど萎れきった屋敷とは打って変わって、庭の草花達は来たるべき季節を待ち望んで春の準備に余念が無い。
野性化した庭は何故こんなにも生命力に溢れているのだろう、と少年は感嘆の声を上げた。
随分前に落とされた枝の切り口から、青々と芽吹く新芽が目に眩しい。
しかし、そうは言っても季節は未だに冬真っ盛り。
なかなか目当てのものが見つからず、イノリも困ったように頬を掻いた。
植えられている木を一本一本見上げて回る。無理な体勢を強いていたせいか若干首が痛い。
「お!」
幹に触れ、イノリは嬉しそうに顔を綻ばせた。やっと目当ての木が見つかったのだ。
高くそびえる樹木を見上げて、枝の先に花がついていないかどうか確かめる。
多くの枝はまだ蕾を固く閉じていたが、幸いにも頂上に近い場所の枝は僅かながら花を開かせていた。
白い花がぽつり、ぽつりと。
梅の木。
最近は貴族達も庭に桜ばかり植えるようになっていたが、まだ残っていたか。
ところどころに赤い蕾もついている。恐らく、風流な主が紅梅の接ぎ木でもしたのだろう。
残念ながらそちらはまだ盛りではなかったが、彼はあの少女には白梅の方がきっと似合うと確信していた。
清らかな白い花を抱いてあかねが微笑んだらどれだけ美しいだろう、とイノリは笑みを浮かべた。
しかし、花のついている枝は遠い。到底背伸びをして手折れるような位置ではない。
「仕方ねえなあ」
袖を捲り上げ、紐を口に咥えて肩口できつく縛る。下駄を草の上に脱ぎ散らかして。
一旦距離を置くと、そのまま駆け出した。勢いをつけて跳躍する。
結果、木の股になんとか腕を掛けることができた。裸足で幹を蹴り上げてよじ登る。
太い枝に腰掛けて少年は一度息を吐いた。木登りは幼い頃からの得意技だ。
身軽に木と木の間を次々飛び回って姉に叱られたことを不意に思い出してイノリは喉の奥で小さく笑った。
さあ、後もうひと踏ん張りだ。紐を縛り直してイノリは頭上を睨む。
器用に掴むべき場所を掴んで更に高みへ。
時折枝が軋むと瞬間身を止めるが、すぐにまた次の枝に手を掛ける。
これはまずいな、とイノリは冷や汗をかいた。思ったよりも枝が細い。
もう少し小さい頃ならば大丈夫だったのかもしれないが、重みで先程から枝が嫌な音を立てている。
しかし、もう今更引き返すことすらできない。登り続けるしかないのだ。
大丈夫、いざとなれば飛び降りればいい。大した高さではない。
花のついた枝が僅かに指先に届いた。あともう少し手を伸ばせば手折れる。
そう思って彼は枝の軋む音も聞かずに身をのめらせた。
それがいけなかった。
ベキベキベキッ!!
「う、おおおおあ!?」
イノリの乗っていた枝が付け根から裂け、有無を言わさずしなった。
余りの唐突さにイノリも混乱し、飛び降りるタイミングすら失ってしまう。
枝と共に少年は相当の高さから一直線に落ちて行った。
振り落とされないようにしっかりと枝にしがみつく。
イノリの重みのせいか、思わぬ方向へと枝は傾いていく。
隣の邸宅との境に造られている塀だ。
このままの速度で落ちていけば塀の上に叩きつけられてしまう。
そのことに気付いたイノリは、けれどもどうすることもできないまま思わず恐怖に目を瞑った。
しかし、彼が見定めていた方向とは幸いながらにも僅かに反れた。
枝は太い部分を塀にバウンドすらしたものの、イノリがしがみついていた先端の部分は隣の敷居の中へと転がり落ちた。
それでも相当の勢いで地面に放り出され、しこたま頭を地面に打ち付ける。
「ってえ!」
イノリは頭を抱えて悶絶した。
痛みに潤む瞳でちらと足元を見ると、盛大に折れた梅の枝が転がっている。
そこには勿論、花のついた小さな枝も健在で。
はあ、と安堵の溜め息をついた。これで梅が手に入らなかったのならばそれこそお笑い種だ。
さてと、さっさと手折ってしまおう。
イノリは未だに目の回る頭をなんとかぐっと堪え、身を起こした。
刹那。
「やや、何やら庭の方で何か物音がしなかったか」
「まさか曲者」
ぎくり。とイノリは身を硬直させた。顔を引きつらせたまま、目だけで辺りの様子を伺う。
雑草もなく、細やかに整えられた庭。辺りに静かに響くししおどしの音。揺れる御簾。
そして何より、人の気配で溢れている。
イノリは今度こそ本格的に頭を抱えた。どうやら隣の邸宅は空き家でなかったらしい。
これで見つかったらどう言い訳をしたら良いものだろうか。
面倒なことに巻き込まれる前に逃げ出さなければ。
慌てて辺りを見渡すのだが、門までの間身を隠せそうな場所は何処にもない。
やけに見渡しの良い庭だな、と少年は小さく悪態をついた。
足音が近づいてくる。万事休す。
せめてこれだけは死守しなければ、と共倒れしてきた大きな梅の枝に縋りつく。
もうどうにでもなれだ。
ふわり。
小さくうずくまるイノリの体に、薄絹の衣が掛けられた。びくり、と身を震わせる。
「しーっ、静かに」
衣の上から酷く愉しそうな声が囁かれた。
恐る恐る目を開けてみれば、目の前に見慣れた柄が太陽光に透けて見える。
沓の形も何処か見覚えがある。何よりもまず、
鼻腔をくすぐる侍従の香。
「ともまっ」
「おや、少将殿。こちらにおいででしたか」
「やあすまないね。こんな時刻まで居る男はさぞ無粋だろうに」
聞き慣れぬ男の声がした途端、イノリは狩衣の上から半ば強引に口を塞がれた。
そのまま身動きすらとれず、仕方なく友雅の衣の中で息を潜めているしかない。
「此方で轟音がしたものですから」
「ああ、きっとこの枝が朽ちて落下した音だろう。
これほどのものに、はらり、優雅に降り立つという芸当は求める方が難題というものだからね」
「ならば良いのですが……少将殿、何者かを見掛けたりなどは」
イノリは思わず掛けられていた衣を手でぎゅうと掴む。
絹が引き攣れて、それを着ていた友雅は果たしてどんな顔をしたのだろうか。
確かめることもできないが、声色だけはただ愉しそうに。
狩衣を正す素振りで、より深く少年の姿を隠す。侍従の香が眩むほど強く香った。
「さあて、ね。忍んでくるのならば夜だろう」
少年の上に衣越しに影が覆い被さって、また離れた。
次いで、目の前に立っていた男が遠ざかっていく足音が聞こえる。
それからやっとあの影が警備の男が一礼した所以だと悟った。
草を掻き分ける足音が完全にしなくなってから、イノリは狩衣を手で払って外へ転がり出た。
見上げれば、やはり。愉快そうに微笑む友雅の姿がある。
「てめっ……友雅!」
「はは、怖い怖い。助けてあげただろう?」
少年は顔を真っ赤にして言葉を詰まらせる。
しかしよりによってああいう方法を取らずとも良かったではないのか。
その言葉が喉まで出掛かっていたが、すんでのところで飲み込む。
感情だけで喋っても言いくるめられてしまう厄介な相手なのだ、こいつは。
「大体、なんでこんなところにアンタがいるんだよ」
「それは此方の台詞だよイノリ。何故君が此処にいるのかな?」
「俺はっ……その」
手折る、というには程遠い大きさの梅の枝を横目に、イノリは落ち着きなく身をそわつかせた。
友雅はそんなイノリの気持ちを知ってか知らずか、盛大に転がっている枝をじっと見つめた。
その先端に僅かな白い花が零れているのを見て、僅かに目を細める。
「さしずめ想い人への贈り物、といったところかな」
途端にイノリは耳まで真っ赤に顔を染め上げる。
あまりにも分かりやすい彼の反応に友雅も思わず声を上げてけらけらと笑った。
それが嘲笑だと思ったのか、イノリは真っ赤な顔のまま憤慨して立ち上がる。
「笑うな!」
「いいじゃないか。誰かの為に必死になれるというのは良いことだよ」
そっと。
友雅はイノリの乱れた髪を繊細な指で撫でつける。
侍従の香が再び漂って、不意にイノリはドキッとした。
「お前にそこまで想われる相手に少し妬けるね、私は」
そう言って。
友雅は身を少し屈ませると、弄んでいたイノリの髪にそっと唇を寄せた。
体を離す頃には、イノリは最早何も言葉を紡ぐことが出来ずにわなわなと唇を震わせるだけとなっていた。
何を今されたのかさえ上気した頭では理解まで及ばない。
見上げれば、柔らかな朝陽を背負って微笑む友雅の顔。
「なっ……っ……あ!?」
「ただの戯れごとさ」
ふふ。いつものように飄々と笑って友雅はイノリから離れる。
口付けを落とされた髪を呆然と手でくしゃりと握る少年を見て、眩しいものでも見るかのように僅かに目を細めた。
足元に転がる枝から梅の花を一輪。指で摘み取って、友雅は笑う。
「さて、私も君の想いを少し分けて貰おうかな」
袖の中へ開きかけの花を隠し、その手で長い髪を雅に流す。
イノリはそれを制することさえ忘れ、その舞うかのような動作に見惚れていた。
だから友雅が自分の横を通り過ぎる際、囁くようにこう言ったことにもすぐに反応ができなかったのだ。
焚き染められた香りがまた、ふわり。
「早く花が実をつけるといいのだけれど、ね」
手折ってきた花を抱え、息が切れるほど走った。
気付けば陽は朝を告げて、イノリの影を地面にくっきりと残す。
遂に足が止まり、少年はぜえぜえと苦しそうに胸で息をしながら俯いた。
冷めない頬の熱を手の甲で確かめながら。
“お前にそこまで想われる相手に少し妬けるね、私は”
「……んだよ、アイツ」
調子が狂う。何故ここまで過剰に反応してしまうのだろうか。
ただの戯言、友雅にしてみれば子供をちょいとからかっただけのことだろうに。
ふと抱えた梅の花を見つめる。つい先程まで、花を見て思い出すのはあかねの顔だった。
しかし、何故今はあの袖にそっと収められた一輪のことしか頭に浮かばないのだろう。
イノリは認めたくない、といった様子で頭を振った。
自分の髪が額を撫ぜるたびに余計な思念が浮かんできて更に気が滅入る。
悪戯に唇を落とされた髪から燃えているような気がしてならなかった。
もしくはそこから、段々と甘い毒に侵されているような。
「そうだ」
イノリは自分に言い聞かせた。これは感情などとは別のもの。自分は少し大人の毒に触れて、そこが今やられてしまっているだけなのだ。
無理矢理整理をつけて、すうと息を大きく吸い込む。
腕の中から香るのは梅の甘い香り。
不意に漂ってきた香りにイノリは脅えた。勿論一瞬のことだったが、心から脅えたことには代わりがなかった。
その香りが、あの侍従の香りを呼び起こしたのだ。
堪らなくなって思わず膝を折る。
“早く花が実をつけるといいのだけれど、ね”
梅の実は毒。別れ際の囁きは夜来香のように。
花が散るのも構わずに、イノリは再び駆け出した。走るしかないと思った。
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