終われない気持ち   イノリ×あかね




溜め息は風にかき消されて霧散した。
こんな季節でも、夕方になると随分と肌寒くなるんだな。
イノリは冷えた指先を口元へ近づけるとゆっくりと息を吐く。
自分の手を自分の為だけに温めて、そのまま何気なく空を見上げた。
高い空はあいにくと曇り模様で今にも一雨降りそうだ。
 
 
「あー」
 
 
息をつくといつの間にか気の抜けた声を発していた。
仰向いたまま、いっそこのまま雨が降ればいいのに、とイノリは心底思う。
暫くその体制で目を瞑ってみた。
それでも雨は降らず、瞼を半ば無理矢理に押し上げても斑のある灰色が覆いかぶさってくるだけだ。
足元には萎れかけた朝顔が俯いている。
うっかり踏みつけてしまわないように、とだけ心に決めながら。
それでも歩みだけは乱暴に投げ出して歩いた。下駄で蹴り上げた砂利が脛で弾かれる。
いっそのこと走り出してしまいたい気分だった。しかし、走り出す気分などには到底なれなかった。
本当に悲しいときは涙は出ないのだな、と。そんなことを思った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
少し開けた場所に簡素な町屋は立っている。
少々立て付けの悪い板扉を強引にこじ開けて、薄暗い土間へと足を踏み入れた。
 
 
「あら、お帰りなさい」
 
 
誰もいないかと思っていたが、影の一層濃くなっている場所に彼女はいた。
イノリは後ろ手に扉を閉め切る。
すると靄のように広がる闇はますます濃度を増して屋内に浮遊した。
イノリはなんでもないような顔を繕って、未だはっきり姿の見えない彼女に笑いかける。
 
 
「ただいま、姉ちゃん」
 
 
セリは儚げに笑い返すと、畳みかけの衣服を置いて立ち上がった。
光の当たる場所に出ると、今にも消え入ってしまいそうな弱々しい美しさが余計に引き立つ。
長く伸びた髪を微風に揺らしながらセリは弟の向かい側に腰掛けた。
ふ、と。
イノリは自らも気付かないうちに顔を背けた。真正面から見つめる姉の視線が恐ろしかったのだ。
セリはただ笑顔のままその場に座っている。
 
 
「用意、できたのかよ」
 
 
沈黙に耐え切れず、先に口を開いたのはイノリの方だ。
姉が置きっぱなしにした衣服を横目で見据え、次いでその周囲に散乱している姉の持ち物を眺めながら。
セリの持ち物が元あった場所はがらんと空虚で、イノリの物はと言えばそこまで数もない。
結果的に家はもはや空き家のようで、しかし淋しいと感じることすらできなかった。
そこまでの余裕が今の彼にはなかったのだ。
 
 
「後は包んでしまえばいいだけ」
「そっか。アイツんとこには……アイツは、いつ迎えに来るんだ?」
 
 
なるべく平常心を装ったが、やはりその単語は口に出せない。
イクティダール。
長年憎み続け、恨み続けた男の名前はまだ言えない。
けれども姉はそれでも嬉しそうに顔を綻ばせた。
作り置いておいた夕飯を器に盛りながら、強くはっきりと言い放つ。
 
 
「イノリがね、行ってしまう日に合わせて貰うことにしたの」
「……え?」
「あなたを見送ってから発つことにしたわ」
 
 
ズキリ。
心臓が杭か何かに刺し貫かれたかのような感覚を覚えた。
ぐ、と襟刳りを手で鷲掴む。
もう姉の顔を見ることなど到底出来なかった。
一度でも見てしまえば押さえ込んでいた感情を全て吐露してしまいそうな気がしたのだ。
だからイノリは僅かに俯いたまま小さく呟く。
 
 
「……俺、行かないんだ」
「イノリ?」
「俺、あかねとは一緒に行かない。ここに残る」
 
 
セリが黙り込んでしまったのを感じて、イノリは何故だか申し訳ない気分になった。
無理矢理に顔を上げると明るい顔を作る。
 
 
「だから、俺が姉ちゃんのこと見送ってやるぜ! 安心してアイツのとこ行けよ。
 この家は俺が守るし、なんならお師匠のところで厄介になりゃいいし、それに」
「イノリ」
 
 
まるで咎めるような口調でセリは名前を呼んだ。
驚いたイノリが思わず視線を彼女に返すと、強い視線に撃ち抜かれた。
大きな緋色の瞳がイノリの心の奥深くまでもを見つめる。
イノリは凍りついたかのように、作り笑顔のまま硬直した。
こんなに強い姉の顔を見たのはいつ以来だろうか。そんなことを頭の片隅でうっすらと考えながら。
そして、その強い表情は確実に誰かに似ている。
それがあの愛しい神子の顔だとはイノリはまだ気付いていない。
 
 
「一体、何があったの」
「別に大したことじゃない。連れて行ってほしい、って言ったら駄目だって断られちまっただけだ。
イノリ君にはこの世界があるでしょう、っだってさ。へへっ、情けねえや」
「それで諦めて逃げ帰ってきたのね」
「う、……え?」
 
 
今までにない、淡々とした姉の様子にイノリはたじろいだ。
セリはイノリを睨むことこそしなかったが、それに近い眼差しでじっと見つめている。
はあ、と溜め息をついて。
 
 
「イノリ。あなたがそんな風なんだったら、私は付いていかなくて正解だったと思うわ」
「っ!」
 
 
自分の頭に血が昇るのを感じた。かっとして、思わず立ち上がる。
 
 
「なんでだよ! おれっ……俺はアイツのことが好きで! だから守ってやりたくて!!
それはアイツの世界に行ったって同じだ! 何処に行ったって俺がアイツを」
「イノリ」
 
 
いいから座りなさい、とセリは促した。
イノリは湧き上がる怒りがまだ落ち着いていなかったものの、仕方なくどかりと腰を下ろす。
苛立ったように爪を噛む弟に、姉は諭すような視線を向けた。
 一言一句、彼の中へ浸透させるように。
 
 
「神子様は別の世界から召喚されてきたのよね、確か。
それなら、自分の見知らぬ世界で生きる大変さを誰よりも知っているんじゃないのかしら」
 
 
イノリは返事すらせずに不機嫌そうに眉をひそめている。
 
 
「だからもし私が神子様の立場なら、試しちゃうかもしれないな」
「試すって、何をだよ」
「好きな人が知らない世界に来ても大丈夫なくらい、強いかどうか」
 
 
 
 
 
少年はハッと顔を上げる。今更になって鮮明に頭に思い浮かんだのだ。
 
 
『イノリ君は、この世界にいなきゃ駄目なんだよ』
 
 
そう、泣きながら。涙を零しながらそれでも笑ったあかねの顔が。
何故あのときの涙の訳に気付かなかったのだろう。
何故一瞬でも、彼女が自分と離れたいのではないかなどと思ったのだろう。
イノリはギリ、と奥歯を噛み締めた。
 
 
「……俺、まだ間に合うかな。姉ちゃん」
 
 
セリは何も言わずにただ微笑んでいる。眉を困ったように下げて、愛しい弟の姿を眺めていた。
気付かぬ間に頬を流れていた涙を手の平で拭ってイノリは立ち上がる。今度こそ、確かな足取りで。
 
 
「わかってる。……間に合わせてみせるぜ」
 
 
板戸を引き、開け放したままイノリは飛び出していった。
もう辺りは随分と暗く、夕陽も頭を僅かに覗かせている程度だった。
それでもその微かな光に少年の赤い髪はきらきらと反射し、遠ざかっていく背中も影のせいか一回り大きく見えた。
セリは扉に手を掛けながらそんな愛しい弟の姿を見送っている。
いつまでもそこに立っていて、彼の姿が見えなくなった後もまだそこに立っていた。
何処までも優しい眼差しで見つめながら。そっと弟との別れを感じながら。
 
 
 
 
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