目覚めるといつもの朝だった。
勿論この場合の『いつも』というのは四方を御簾に囲まれ、側に控えている女房達の声で目覚める、という『いつも』である。
そんな日常が当たり前になり始めていたこの頃、あかねはその日常を深く思い悩むようになっていた。
目覚めてからの準備もそこそこに、あかねは枕元に置いてある漆塗りの手箱を手に取った。
蓋を持ち上げる。
中にはあかねが今までに一戦を交え、そして封印した怨霊達の封印符が収められていた。
まだ数さえ少ないものの、その幾枚の符をぱらぱらとめくっていると朝から思慮に深く沈み込んでしまう。
封印の力。
龍神の神子としての絶大なる力を手に入れてから早四日ばかりが経過した。
初期の頃。
あかねはとにかく神子として認められたことが嬉しくてたまらないとただそればかりであった。
だから得た力をがむしゃらに使って手当たり次第に怨霊達を封印して行った。
これまでに積み重ねていた五行の力も手伝って、小物ならば一日に三体は封印できるようにまでなっていた。
自分が生き残ることだけで精一杯だった頃とは見違えるような成長を遂げている。
しかし、今となってはこの力こそがあかねの悩みだった。
日に日に強大になっていく力。
今はかろうじてそれをコントロールできているが、いつしか制御しきれなくなったらどうすれば良いのだろう。
いくら龍神から与えられた清い力だとは言えども、もしも一たび暴走してしまえば周囲に害を及ぼすのではないか。
こう思い始めてから途端にあかねは怖くなり、思うように力が奮えなくなってしまったのだ。
あかねは再び封印符を手箱へ戻すと、ほうとひとつ息をついた。
「あかねー!」
屋敷内に響き渡る程の大声。次いで、どたばたとやかましく床を伝わる振動。
それを聞いた瞬間、物思いの湿っぽい空気は何処へやら。あかねは思わず噴き出した。
朝からこんなに盛大な音を立てて登場するのは彼しかいないとわかっているからだ。
だから御簾越しに赤い髪が透けて見えたときには忍び笑いをしてしまった。
「イノリ君、おはよう」
「おう、おはようさん! 外は今日も良い天気だぜ」
そこにおずおずとした可愛らしい足音が近付いて来るのが聞こえる。
その足音が御簾の向こう側でぴたりと止み、小さな影を映した。
「神子様、失礼致しますね。
イノリ殿! 神子様にお目通りの際にはまずこの藤に一度お声をお掛け下さいませと何度申せばわかって頂けるのです!」
「悪い悪い。いちいちやるのが面倒臭くってよ」
「あまり無茶ばかりなさいますと朝のご挨拶を禁じさせて頂きますわよ。友雅殿のように!」
げ、とイノリが呟いたのをあかねが聞き逃すはずがなかった。
それもそのはず、イノリは友雅がそのような手筈になったその場に立ち会わせていたのである。
以前からのあかねに対する自由奔放な振る舞いも原因のひとつであろうが、やはり一番の決め手となったのは藤姫が朝あかねに挨拶しに来るより先に、既に友雅が御簾の前に我が物顔で座っていたことだろう。
簾越しに、無関係の者さえも赤面してしまうような甘い言葉を囁きながら。
それらの要因が重なって遂に友雅は屋敷内踏み込み厳禁とされてしまったのだ。
玄関先で一人ぽつんと立たされている三十過ぎの男を見てしまえば、イノリが黙るのも無理はない。
「……努力はする」
「わかって頂けて嬉しいですわ。
神子様。早朝から騒々しい振る舞い、申し訳御座いません。
藤は下がってお待ちしておりますので、いつでもお声をお掛け下さいませ」
「う、うん。ありがとう藤姫」
衣擦れの音がして藤姫が遠ざかっていくのがわかった。
足音が消えるとほぼ同時に、御簾を手で避けてイノリが中へと顔を出す。
「入ってもいいか?」
「うん、いいよ。どうぞ」
イノリは素足で踏み込むと、あかねの前にどっかりと腰を下ろした。
それから、小脇に抱えていた細長い布包みを体のすぐ傍に寄せて置く。
彼の扱い方から察するに、相当重要な物なのだろうということが見てとれる。
「今日は暇を貰いに来たぜ。今朝方、急にお師匠の使いを頼まれちまってさ。
せめて行く前にお前に一言挨拶しとかなきゃって思ったんだ」
「そうなんだ。遠方まで出掛けるの?」
「そうでもない。今日中には戻って来られるんじゃねえかな。陽は暮れちまいそうだけど。
でも、名誉ある仕事なんだぜ。
なんてったってお師匠が打ち上げたこの名刀を納めに行くんだからな」
イノリは自慢気に笑って、先程の布包みを掲げてみせる。
途端、あかねは唐突に襲った胸の痛みに身を屈めた。
自身でさえも原因がわからないその痛みにあかねが首を傾げていることなど知らず、緋色の少年は嬉しそうに布包みを縛っていた飾り紐を解いていく。
ゆっくりと紺色の布を肌蹴させると、中から鈍く黒光りする刀身が現れた。
所々に細やかな金細工が施されており、素人目から見ても美しい、素晴らしい刀だ。
「へへっ、スゲーだろ。勿論外見だけじゃないぜ。
お師匠が打った刃は切れ味も抜群にいいし、歪みも捩れもない。
俺もいつかこんな刀を……っておい、あかね? 大丈夫か?」
あかねは小さくひとつ頷いた。
しかし、既に自身が感じた胸の痛みの原因は見えていた。
それはずっとあかねが気に病んでいたことで、だからつい零すようにぽそりと呟いた。
「イノリ君は……怖くないの?」
はっ、とあかねが気付いたときにはイノリがぽかんとした表情でこちらを向いていた。
「怖いって、何がだよ?」
ああ、余計なことをした、とあかねはつい頭を抱えた。
『龍神の神子』がこんなことで思い悩んでいることを彼に悟られたくなかった。
しかし、口にしてしまったからには下手に隠している方が心配を掛けることになる。
あかねは腹を括り、ぽつりぽつりと少しずつ話し始めた。
龍神の神子としての力があまりにも大き過ぎることに不安を抱き始めていること。
その力が誰かを傷つけるのではないかと脅えていること。
そして。
「イノリ君は、一人前の刀鍛冶になる為に修行してるんだよね。
自分が打った刀が誰かを傷つけたり、殺めたりしたらどうしようって……思ったりしない?」
その言葉で締めくくった。
イノリは時々軽く頷いたり、相槌を打ったりしながら。
けれども終始何かを深く考え込んだ様子であかねの話を聞いていた。
緋色の瞳に射抜かれたあかねは、喋り終わったあともイノリを見つめ返している。
けれど、イノリはあかねの奥に何かを見い出したように遠い視線を注ぎ続けていた。
しゅる、と。
おもむろにイノリが頭に巻いていたバンダナを解いた。目に鮮やかな赤い髪がはらりと舞う。
左手で前髪をくしゃりと撫でつけながら、そのバンダナを握り締めた拳をあかねの目前に突き出す。
「あかね。これ、怖いか」
「これ……って、この布のこと? 怖くないけど、何で?」
「怖くないだろ。でもな、」
そう言うと彼は手にしたバンダナを首に巻き、両端をそれぞれ両手で掴んだ。
「こうやって、力一杯に引き絞ったら首が絞まるだろ? それって、怖いことだよな」
あかねがあまりにも不安そうな瞳でイノリを見つめるので、イノリは困ったように微笑んで片手を離した。
再び布は本来の柔らかさを取り戻し、力なく少年の肩にもたれかかる。
バンダナで再び髪をまとめながら、とりとめもない様子で言葉を紡ぐ少年をあかねはぼうっと眺めていた。
「だからさ。
結局は使う方の問題なんじゃねえのかな。それ自体が怖いんじゃないんだよ。
刀も、布も、お前のそれもさ。この布だってちゃんと使えば役に立ってくれる。
あかねは誰かの不幸の為にその力を振るうんじゃないんだろ。
この京を守りたいと思って使う力なんだろ。それだったら、だったら、
きっと小さなことなんだ。でも、
……うまく言えない。ごめんな」
照れ臭そうに頬をかくイノリに、あかねはやっと笑いかけることができた。
今度こそ正真正銘の笑顔で。
「ありがとう、イノリ君」
「馬鹿、改まってなんだよ。
……って、やっべ。あんまり遅くなっちまうと刻限までに間に合わねえじゃん!
そんじゃ、俺は行くぜ。また明日な、あかね!」
刀身を布で包みながら
(持ってきたときよりも随分乱雑な縛り方をしていたが、あれはあのままでいいのだろうかとあかねは余計な心配をした)
イノリは立ち上がり、来たときと同じ性急さでどたどたと廊下を駆けていく。
しかし、その足音が段々遠くなり。更に消えかけた頃。
再び同じ足音があかねの元へと迫ってきた。
御簾が揺れ、隙間から赤髪の頭がひょこっと顔を出す。
「大丈夫だぞ、あかね。お前は俺が守ってやるからさ」
あかねが真っ赤になって言葉を返す前に、先程よりも幾分か速い足取りでイノリは逃げ去るように帰っていった。
心なしか足音も普段より浮き足だっているようだった。
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